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本駒込の家

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作品詳細

日本史学者の故芳賀幸四郎氏の代に本駒込の地に建てられた住宅+書斎は、その息子であり、夏目漱石研究等で知られる日本文学研究者の芳賀徹氏の代に、建築家の故黒沢隆氏の手によって、二回リノベーションされた。さらにその住宅が徹氏のご子息=施主の手に渡る段階で、私が三回目のリノベーションをすることになった。

黒沢隆設計によるその住宅を現地調査で初めて訪れたとき、薄暗い室内に、所狭しとうずたかく積まれた本の山に驚き、黒沢が標榜していた<個室群住居>と相違する平凡な四LDKプランや、<機能の多元化>と相違する個室化された大きめの台所に違和感を感じた。「芳賀先生の書斎」の竣工が1972年、それに遡ること1968年に黒沢隆氏は既に論文「個室群住居とは何か」を発表しているので、「芳賀先生の書斎」設計時には既に<個室群住居>は概念化されていたことになる。黒沢建築において「理論」と「実践」の使い分けはしばしば語られることであるが、「芳賀先生の書斎」は両者の隔たりの何処に位置するのだろうか。

この疑問を解く鍵は、1978年の住宅建築に他の住宅3題と共に掲載された「芳賀徹さんの書斎」にある。特筆すべきは唯一この作品だけ、黒沢氏自身が解説を執筆していることである。(前略)つぎはぎのうち、やや新しい部分を2階建てのまま残して古い部分をこわし、あたかもパズルのようなあるいは手品のような、計画であり普請だった。ひとをドライとウエットに分けるとすれば、芳賀先生はウエットだ。あるいはwarmといったほうがいい。学問や仕事のうえでも、それを客体化しあるいは対象化して自己の外においてしまわない。客体化されるのはおそらく自己だけなのである。だから、私的生活と公的生活とは学問を介して実に有機的な連繋と統一がある。全体をつらぬく有機的な整合の中に、この人は生きている。だから、この家はこうでなければならなかった。よもや発表することになるとは思っていなかったのだが、ややサービス過剰で身の廻り主義ふうなところがものたりない。もうひとつ、大船の「普通の家・その一」直後の時期なので、その後はビルトインされてしまうさまざまな要素が、まだ家具として残されていたりもする。(後略)掲載写真は、書斎二枚、居間の障子を閉めた状態を接写した一枚、南側ファサード一枚の計四枚であり、いずれも住宅全体の構成や庭との関係が分かり辛くなっている。

芳賀先生にとって住宅とは仕事場であり、そこを埋め尽くす本の山は芳賀先生の生活そのものである。黒沢氏はそれを有機的と表現しているが、言い換えれば一人の生活者として芳賀先生を対象化し辛かったのではないか。対象化出来ない居住者に対して<個室住居>という概念のケーススタディーとして住宅を描くことは難しい。その一方で、手法としての<普通の建築>は、芳賀先生の生活スタイルとは直接関係することなく部分部分で成立していた・・・それが完全に果たし得なかったのは、改修+増築の難しさもあり、「パズルのようなあるいは手品のような、計画」「ビルトインされてしまうさまざまな要素が、まだ家具として残されていたりもする。」という言葉にも表れている。掲載写真は、公私が渾然一体となった住宅の中でも、手法としての<普通の建築>が成立し得た部分であると考えられる。既存建物の調査を進める中で、近代の封建的家族観等、当時の社会やイデオロギーに対置される概念である<個室住居>よりも、<様式の建築>や<形態の建築>に対置される<普通の建築>という建築手法の方が、私の中で前景化するようになった。

元々母屋と書斎は、庭に対して出来るだけ南面させるためか、それぞれ敷地に対して傾いて建っていた。これを黒沢隆氏が1972年に増築により二世帯住宅に、さらに同氏が1989年に母屋を撤去、その跡地に集合住宅を建設した時点で、残されたこの住宅は敷地に対する傾きの根拠を完全に失った。施主の要望は、つぎはぎの結果出来てしまった家の周りに複数あるこの僅かな隙間を活かすこと、家と庭の親和性を回復することの二点であった。学者の家系である故か、不合理なことが気になるらしい。そこで、北西の隙間は、玄関を敷地境界まで突き出すことで、アプローチから玄関のガラスを通して見える坪庭に、LDKとセットで回遊できる廊下の位置は、巡る過程において坪庭化した隙間をガラス越しに必ず捉えるように計画し、奥様書斎や浴室は隙間とセットになって美しい眺望や光で満たされるようにした。それだけでなく「勾配を与える」以外に意味を持たない屋根裏の大きなデッドスペースを子供部屋のロフトベッドにするだけでなく、自然光を効果的に取り入れる採光装置にすることにした。用を持たない各部の隙間は、<普通の建築>の用で満たしていくことで反転、もはやこの住まいの質を決定付ける重要な要素になっている。最大の隙間である鬱蒼とした庭は、この家と集合住宅の隙間をスタート地点として、奥様の書斎まで幅を変えながら緩やかに円弧を描く緑に囲まれた居場所に変えた。その結果、三和土を挟んで分節する緑はリビングから見た時に心地良い奥行きをつくってくれる。芳賀家の象徴でもあるタイサンボクは二階のどの子供部屋からもよく見える。

と或る四月の昼下がり、主人はデッキテラスから庭の三和土にテーブルと椅子を移動してお茶を飲み、娘は奥様の書斎で寝転がり読書をし、奥様は主人の書斎でパソコンをする等、各人が心地良い場所を見つけて寛いでいる。だから、この家はこうでなければならなかった。設計で想定していた使われ方とはやや異なるが、場所と個人が有機的に繋がっている。

浅利 幸男

ラブアーキテクチャー 一級建築士事務所
東京都
https://www.lovearchitecture.co.jp/

デザインは人間の感覚や感情に何らかの影響を及ぼそうとすることで、我々建築家は生物としての人間の性質を深く理解することが大切です。住まいの設計は建築の中で唯一、施主=個人への探究行為で、「本当に自分が住みたい家」は事前には良く分からなく、探究の結果、事後的に理解されるものなのです。
プランや機能を満足させることは当然の事だと考えていて、豊かな情緒や美しい佇まいをデザインすることを主眼としています。新築/リノベーション、専用住宅、別荘、賃貸又は店舗併用住宅、ゲストハウス等、日本全国で対応可能です。

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